今思えば…あの日の『~ゴールデンラジオ』には、クレームが沢山届いていたんじゃないかと思います。
思い返すと…そのような内容のFAXを1通紹介していたように思います。
“自分はこうありたい”ばかり考えていて、周りがどう思うか?周りがどうなるかを微塵も考えていないような奴がどんな仕事であれ活躍出来る訳がありません。
とにかく今振り返ると本当に未熟な考え方しか出来ない人間だった私。
しかしながら当時の私はそのことに気づくことなく…日々下積み生活を送っておりました。
当時の私は結婚直後。
そしてWコロンを結成した年の12月には長男が産まれました。
家族を養わなければならないという大きな絶対命題を課せられた私は、昼は浅草東洋館で漫才、夕方からは若手のお笑いライブ、週に1回程度で頂ける文化放送の『寺島尚正ラジオパンチ!』の中継レポーター、その他ちょこちょこ頂くお笑いの仕事がある程度で、あとは主たる収入源である夜勤のコールセンターのバイトでどうにかこうにかやり繰りを重ねる日々。
この頃は常に寝不足、周りの芸人たちが少しずつチャンスを形にし、1組、また1組と華やかなテレビの世界へと羽ばたいて行きました。
当時の若手芸人にとって、“売れない芸人の沼”から抜け出すには“テレビ”で活躍するほか道は無かったのです。
今まで身近だった芸人仲間が憧れだったテレビで目にする機会が増えるようになる一方、テレビ番組のオーディションさえない状況。
当時の私は明らかに焦っていました。
浅草に戻り、頂いた出番で漫才をやる、そこには何の未来も見えないように思えました。
当然そんなことはなく、浅草は明るい未来を手にするための鍛錬の場所であり、学びの場所なんです。
しかしながら直ぐに結果が欲しい私は常にイライラしていて、特に浅草に居た時の私は常に〔早くから抜け出したい〕とばかり考えていました。
そんな私に…ある師匠が実に染みる一言を私に掛けてくれたのです。
2023年07月18日