ゲスの極み乙女。の新作音楽ビデオ/MV/ミュージック・ビデオが、公開されていました。昨日エントリー、あいみょん の「愛を伝えたいだとか」に続き、ようやく日本のMVが紹介できる日が続くようになって、とてもうれしいと思っている、川村ケンスケなのです。ということで、これにかこつけて、映像制作および演出の手法を解説!(というほど、すごいことではないですが…)
…は、もう、みなさん、言わずと知れた!ですね。
いいね。この写真。好きです。
さあ、ご覧いただきましょう。
ゲスの極み乙女。の「影ソング」!(小林克也です!…こればっか)
ほほう。こう来ましたか(孤独のグルメ風)。
人形芸、ですな(そんな「技の名称」は、ないですが…笑)。
…直接ミュージシャン本人が音楽ビデオ/MV/ミュージック・ビデオには出ずに、人形になって現れる、っていうのは、実際、かなり昔からある手法ですねー。川村ケンスケ は、実はこの手法は大好き。
このGENESISの音楽ビデオ/MV/ミュージック・ビデオは、かなり代表的で、メジャーで、有名な作品。ま、これは全編が「人形芸」ですが(笑)。
そして、
「ネガポジ芸」(これも、こういう「技の名称」はない!ですが…)!!!
撮影スタジオの中で「抽象的な方向で、『演出・設定』を描き」、
一方、
リアルな世界(もちろん、ロケ等の場合が多い)の設定で、
さきほどの「スタジオ」の「抽象的な設定・描写」で出てきた「人間やモノ」を、その「リアルな世界」で「実際の人間やモノ」に「置き換えたりして」対比させる、というもの。
…つまり…
言い換えれば、スタジオの描写とロケの描写、その両者の関係が、フィルムの「ネガ」と「ポジ」、「陽」と「陰」、「表」と「裏」…のように見える、そういう意味での、「ネガポジ芸」という手法、というふうに定義している、というわけですが。
これもまた、川村ケンスケ が大好きな手法です。
「影ソング」…つまり、「物体」があってこその、その「影」が存在している。この「物体」と「影」の関係も、ある意味「ネガポジ」の関係、なのか?と邪推。
形而上学的に言えば、そしてプラトン的に言えば、「我々は、『真実(もしくは至高)』という「光」に照らされて、そのできた「影」という「この世界」を見ている。そして我々は、その「光」に背を向けて立っていて、その光のほうを絶対に振り返ることができない…(設定としては、現実の世界の「何か」に縛り付けられていて、だから、振り返れないのですが)…ので、いつまでも「真実(至高)」をみることはできないのだ」、ということ。
「影ソング」の「本質」も、そういうことなのか?と、邪推。
…と、思わせるという意味で、
この音楽ビデオ/MV/ミュージック・ビデオの演出は、切れ味がいいものになっている、と言えるだろう。
なんて。
あと、この「影ソング」は映像のトーンやカメラの「距離感」(=レンズの選択)も、とてもいい。
「被写体との遠さ加減」が、音の感じにマッチしています。
実は、この「距離感」ってとても大事で。
音でいうと、「マイクを近づけて録るか、遠ざけて録るか」みたいな。
違う言い方をすれば、カメラのワイドレンズは、指向性の広いマイク。望遠レンズは指向性の狭いマイク、といった風合いで。
距離で表現される内容が、あるということですねー。
映像でいうと、この「影ソング」の「撮影のレンズ」は、人間の目に近いあたりの「レンズ」を選んでいて、それが「曲が表現したい『普通』感」を表現していて、だからこそ、実はこの「音」や「言葉」が持つ全体の「異常感」が際立つという、そんな逆説的なトーンを持っていると思います。
うーん。考えすぎだ(笑)。
あ、そういえば…
…ですが、
この「影ソング」の音楽ビデオ/MV/ミュージック・ビデオ、
その最後の種明かし?
…と言ってもいい、かな?
…これは、
あまりに普通すぎて「アレ」ですが(笑)
種明かしが、なくても、なんか良かった気がしますね。
なぜならば。
「至高」や「真実」には目が届かない、というのが、我々の生きる世界、なのだから。
という、See Your Music!でした。
では、またお会いしましょ。さよなら、さよなら、さよなら…!
淀川さん、いいなあ。
で、
ついでに、川村ケンスケの「黒・音楽ビデオ/映像論」を読みたい方は…
(といっても、「黒」ばっかりではないですが…)
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