「音楽ビデオって…」っていうお題目の割には、音楽ビデオから外れることが多くて申し訳ないです…。
今日も、学校っぽいかも…
起立、礼…。
いやー、言いたがりがでてるなあーと、自分でも思うわけですが。
音楽ビデオっていうメディアに「チカラ」が足りないのが、すごく残念なので、せめて、こういう屁理屈でもこかないと…。
映画は、まだまだ、というか、勢いあるメディアなのですね。
なぜなら、
映画だと、例えばこうして少し前のものでも、「意義深く」見れるんですよねー。
ともかく…
大林さんの作品、好きな場合が多いです。
この映画ですね。
映画がどんなものか、様々なブログで「憶測混じりの解説めいたもの」が書かれておりますゆえ、
僕的には、ちょっと違う視点で。
一般的な解釈では…
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ドキュメンタリーとフィクションの境目に立っている映画、「理由」。
ということになってます。
もしくは、
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小説を読むように、映像を見せる映画、「理由」。
ということになってます。
脚本や、演技のあり方、役者にノーメイクでの出演を依頼、等々。
それらが全て、
「ドキュメンタリーを映画化する、というパラドックス」を実現するために機能していると、いう解釈のようですね。
しかし、その一方、あまり語られていないのが、
まずは、「妙なカット割」。
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カット割、というと、演技があって、セリフがあって、それらを映画的に見せるために、カメラの位置を変えたり、複数のカメラで撮影したりして、そうして撮られた「撮影素材」を、映画的に機能させるべく「つなぐ…編集する」という作業、
のこと、に思えますが…。
この「理由」という映画の場合、
大林宣彦監督がもともと「CM」なんかから入ってきたひとであることを考え合わせると、
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映画的機能の編集、ということではなく、まず、「感覚」で「映像と映像をつなぐ」ことをやっている、
…と、捉えることができるかな、と。
冒頭からして、村田雄浩さん演ずる「警察官」が、自転車で走っていくところ…、
映像的な理屈なく、短めのカットでパッパッパと繋がれている映像。
たぶん、
「このシーン(に限りませんが)の、編集・つなぎには、さして意味はない」という「意図」でなされている(ように、僕には見える)ような「編集技法」によって、
このシーンが、
映画の「全体の作り・コンセプト」…
「ドキュメンタリーとフィクションの境目を行く」ということ
…の中で、
「突然、意味を持ち始めてしまう」という、これまた「逆説的な」表現に到達している、という。
…なーんてことを、
深く思わずにやってしまっていることの凄さ、が、いつも大林さんの編集にはある気がしています。
簡単に言えば、この不思議な編集が深読みを誘う、
もしくは、もっと普通の視点に立つと、
「なんか、変な、気持ちの悪い感じがするなあ」
みたいな感想になるのかもしれません。
なかなか、映画でもドラマでも、
ここまで「映画の編集の標準的な技法」から外れたことはできないと思います。
そういう視点で、全編見てみると、
「映像の編集にも、いろいろあるんだなあ」
という、あまりにも単純な結論に、至れるかもしれません。
それが、この「理由」という映画を、
他の映画たちと違う「位置」に置いておける理由になっている気がします。
…いいよねー。
…ほら、ここでも「逆説」ですね!
-
「下手さ」が、魅力になる、という逆説です。
「棒読みか!」
っていう演技。
…でも、その「棒読み感」(としか、表現する言葉がないのですが…いい意味で)が、まるで、
「小説の文字を追っているような感じ」
に思えたのです。
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演技というのは、そもそも、「台本の文字を、人間が覚えて、『演じる』という前提で、読み上げているわけで」、
そういう意味では、
「棒読み(くどいようですが、いい意味です)」は、映画においての「ストーリーを伝えたいという希望・欲望」にとって、最大に機能する「方法論」に、この場合、思えたのです。
10年ほど前、テレビで深夜にこの「時をかける少女」を見た時に、ふとそういう感覚に至ったこと、
それは、僕の「映像作り」に、多大な「影響」を残していったのでした。
ま、簡単に言うとそれが、
「ピュアな少女性・青春性を表現できた映画」
という評価につながっているのではないか、という。
それが、
意図された「棒読み感」で「演出」されていたかとおもうと、
大林宣彦という人の「恐ろしい映像感覚」に驚嘆せずにはいられないのでした。
草々。
では、またお会いしましょ。
さよなら、さよなら、さよなら…!
ついでに、川村ケンスケの「黒・音楽ビデオ/映像論」を読みたい方は…
(といっても、「黒」ばっかりではないですが…)
こちらも!
ぜひお読みください!