『昨日より今日はもっと×2!素敵』 BLOG(イケてる大人計画)

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【アニオタはかくしてLIVE演出家になった】19小節目「またあの日がやってくる…"いつか自分たちの力が必要とされる時がくる"と誓った3・11を忘れない」

れらpです。
例のアイドルデータベース記事は今しばらくお待ちください笑
この時期はどうしても書いておかなければいけないことがありまして。

そう…今から6年前。2011(平成23)年3月11日に発生した「東日本大震災にまつわる話を、今日はエントリーしてみたいと思います。

 


■今でも鮮明に覚えている3月11日午後2時46分

当時、僕は東北の某県に住んでいました(転勤族なもので)。その日はちょうど休暇を取っていて、郊外のショッピングモールに買い物に出かけていました。
大きな揺れに襲われたのは、ちょうどそのモールの3階あたりのフロアを歩いていたとき。
突然、体がフワフワ揺れ出したので、一瞬あれ?目眩かな?って思った瞬間、下からドーンと突き上げる大きな衝撃。
例えていえば、シーソーの上に立っていて、突然反対側に飛び乗られてグワッと持ち上げられたような感覚。
不意を突かれて、膝カックンみたいな感じになって、しゃがみこんでしまったことを覚えています。

同時に四方八方から大きな物が落ちる音や、何かが激しくぶつかり合う音が聞こえ、店内の照明がパチパチっと点滅したかと思うと、あちこちで消えた。
店内は明かりが点いてたり消えてたりして、まだら模様のような光景になりました(その後ほどなく照明はすべて消えて店内は非常灯だけになる)。
当然目の前の商品棚からはいろんなものが落ちて床に散乱。
一瞬にしてこれはただ事ではない!って確信しました。

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と同時に、無意識に最初にとった行動は、自分の携帯でその様子をずっとムービーで録画すること。
その間、店内ではあちこちで店員さんが僕を含めたお客さんの無事を確認してまわっており、数分もしないうちに店員さんたちがたくさんの人を店外に誘導し始めました。
僕もそれに従って非常階段を使って店外に脱出。
その間、何度も大きな揺れが襲いました。でも、ここでこの建物が崩壊したらどう動けばいいかな?と妙に冷静に周囲を見渡しながら撮影を続けた記憶があります。
周囲の人たちも、あとで考えるとビックリするくらい冷静に秩序だって行動しており、ガチャガチャ騒ぐ人は一人もいませんでした。

幸い、自宅は無事でした。後日帰宅したら食器は落ちて割れていましたが、建物自体には大きな損傷はなかった。

 


■日本から音楽が消えた日

その後は大急ぎで職場に戻り、以来不眠不休の仕事に数週間に亘って従事することになるのですが、今日は震災の体験談がメインというわけではないので、その辺は省略します。

今日お話したいのは、意外に知られていないだろうこんな話。

僕がイベント関係の仕事に従事しているのは、読者のみなさんよくご存じだと思うのですが、当然ながらこの当時もいろいろなイベントやLIVEを抱えていました。

でも、この震災が起きたことで、そうした催し物が全国的に軒並み中止になったり延期になったりした。
地震津波の被害を直接的に受けた東北各県では、イベント会場自体が破壊されて物理的に開催不可能になったものもたくさんありますが、なによりその後半年、一年と、ず~っと影響が続いたのが「自粛ムード」によるイベントの中止、です。

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あの震災は、結果的には死者行方不明者合わせて2万4千人以上、という、あまりにも大きな犠牲を払ってしまいました。


発災後数週間はすべてのテレビCMは中止され、AC(公共広告機構)のCMばかり流されていたことは皆さんもご記憶だと思います。

あまりにも大災害だったため、すべてのチャンネル(テレビもラジオも)で震災関連のニュースが流され続け、一般CMも含め、少しでも楽しげな、いわゆる「歌舞音曲」にあたるものはすべて「不謹慎」あるいは「不適切」として世の中から排除されました。

結果、発災後10日間くらいの間は「日本から音楽が消えた」。

 


■次々に中止されるイベント・LIVE…折れそうな心を支えてくれた一言

いや、正確には分かりません。もしかしたら遠く西日本では普段どおりの放送がされていたのかもしれません。
でも少なくとも僕の周りではそんな感じでした。

直接的に震災対応の業務をこなすかたわら、僕は当面のイベントの中止や延期に向けての調整作業にも忙殺されました。
まずは会場の被害状況を把握する。必要に応じて、現地まで確認にいく。
共催者がいる場合は、相手方の意向も確認してまわる。
ほうぼうの出演者・アーティストにも連絡をとり、引き続き出演が可能か?福島では原発事故も発生していたので、そうした点も踏まえて、こっちに来る意思があるかどうか?(当然、無理強いはできません)

 

ひとつひとつの調整作業は、本当に胸の潰れる思いでやっていました。
なにせ、どんなイベントだろうと、そりゃあ全力で準備を進めていたものばかりです。
できることなら、予定通り開催したい。
すでにチケットもすべて捌けていて、満員御礼予定のLIVEもありました。
たくさんのお客さんも、心から楽しみにしてくれていたわけです。


一緒に調整作業に当たっていた若いスタッフなんかは、作業の合間に、今まで苦労して作っていたイベントの構成表をじっと見つめていたものです。

 

街のスーパー・コンビニからは、ありとあらゆる商品が棚から消えていました。
ガソリンもまったく入手できなくて、ガソリンスタンドには常に数キロ先まで車が列を作っていました。
当然電気も復旧の目途はたちませんから、自家発電で動いている最低限の会社の電源から、交替で携帯に充電していたようなありさまです。
3月の東北、めっちゃ寒いんですよ。電気がない=暖房が使えない(灯油も底をついたらストーブも終了)。
一番困ったのはタバコです。町中のタバコ自販機は売り切れ(というか電気も通ってないので動かない)。
食料も不足していたので、まさに兵糧攻め
過酷な環境で、それでも自分たちは直接被災しているわけじゃないから、といって頑張っていたのですが、結構心が折れそうだったのは事実です。

そんな時、上層部からこんな激励メールが届きました。

「いつかきっと、君たちの力が必要とされる時が来る。それまでは耐えるべし。」

 


■日本中が助けに来てくれている!

実は、僕がいた場所は、激甚被災地へ向けた主要交通路になっていました。
だから幹線道路には、災害派遣自衛隊車両がひっきりなしに往来していました。
消防車や救急車も、一度に数十台規模のコンボイで通り過ぎる。
港には、自衛隊輸送艦やカーフェリーが毎日のように接岸し、次々にトラックやタンクローリー、緊急車両、自衛隊の装甲車が陸揚げされていました。
発災からしばらくたってようやく仕事が一段落し、毎日深夜とか早朝ではあるけれど帰宅できるようになった時に、そういう車両とすれ違うわけです。

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その時、それら緊急車両に書かれている文字を見て、本当に胸が熱くなりました。
大分市消防本部」「広島県警察」「OSAKA RESCUE」「北海道警察」…。
前を走る自衛隊のトラックの荷台には、何十人もの隊員が座っていました。
これから"戦場"へ向かう隊員たち。思わず、運転しながら手を振ってしまったら、最後尾の隊員が敬礼してくれました。
そして上空には、ひっきりなしに飛び交う在日米軍のヘリ。支援物資を満載して運んでくれていたのでしょう。
今でも、当時の情景を思い出すと、うるっときます。

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日本中が、助けに来てくれている…!

そうか、今はこの人たちが頑張っている。僕の役割は、この人たちが帰ってからなんだ!

と気づいたのはその時です。

 


■エンターテインメントが、救援隊からバトンタッチを受けた!

中止されていたイベントをようやく再開できたのは、発災から約7か月後の10月のことです。
多くの選択肢の中から、選び抜いたイベントは、子ども向けステージ。
3~6歳くらいが対象の、家族向けイベントです。

なぜって?そりゃもちろん、今回の震災で一番辛かったのは、絶対に小さな子供たちだ、と思ったからです。
もちろん大人だって辛かったし、心労、という意味では大人こそ慰労されるべきなんでしょうが、僕らには幸い子供向けイベントのノウハウがあった。
何より考えたのは「僕らにしかできないイベントをやること」。

大人向けのイベントは、僕ら以外でもできる。
だから、まずは数か月にわたって好きなテレビも、遊びも、お菓子も、ずっと我慢し続けてきた子供たちに笑顔を取り戻してあげよう、と思ったのです。

もちろん無料イベントでしたよ。
来てくれた家族連れの笑顔、笑顔、笑顔!
グッズ販売も、膨大な商品を「手で」運んできてくれた東京スタッフのおかげで無事に展開(まだ物流は完全に復旧していなかった)。
「来場者限定お土産袋」も、精いっぱいのグッズをかき集め、パンパンにして来場者一人一人に手渡しました。

終演後も、名残惜しそうにいつまでも会場に残るお客さんたち。
あちこちで、イベントスタッフが家族連れに声をかけ「シャッター押しましょうか?」といっては、楽しかった一日のスナップを家族全員一緒に写るように撮ってあげてた。

首からストップウォッチをぶら下げて、首にインカムをくっつけたままでロビーに出てきた僕を見つけて、何人かの見知らぬお父さんが、
「ありがとう、ごくろうさま」と言ってくれたことは一生忘れられません。

そう、この時僕らは、日本中から助けに来てくれた救援隊からバトンタッチを受けて、いよいよその力を発揮する瞬間を迎えていたのです。

 


■バトンを受け取る責任とは!?

実はこのイベントを実現するにあたっては、正直ものすご~く苦労しました。
この時期、まだまだ東北全体で余震が続いていましたよね。
緊急地震速報の音に「慣れる」という不幸。

まだ時期尚早ではないか?
物流が安定していないから資機材を確保できないのでは?
イベント開催を発表したらクレームが来るんじゃないか?
1,000人近くの人を集めて何か起こったら日本中から叩かれるぞ!?

いろんな懸念が組織を躊躇させました。

それらを粘り強く議論し、リスクを最小限に抑えるために数々の対策を講じ、準備を整えました。
そのひとつが、非常災害時の対応要領の作成。

本番中に地震が発生したら?
緊急地震速報が発報されたら?
ホールの天井が崩落したら?
実際に死者や負傷者が出たら?
館内の避難誘導は?
館内照明が一斉に消えて真っ暗闇になったら?
ステージの中断・再開・中止の判断基準は?
市内の交通がマヒした時、来場者を安全に帰宅させるには?

数十項目に及ぶリスクをリストアップし、マニュアルを作成し、全スタッフの役割分担を明確にした。
震度いくつならこう対処して、いくつだったらこう処理する。
僕も含めて可能な限り日赤の救急法救急員資格をあらかじめ取得し、市内の警察・消防・病院とも万一の際は緊密に連携することを確認し合う。
避難計画もあらかじめ所轄消防に提出しました。

イベント前日には、実際の状況を想定し、会場を使って実地の緊急対応訓練を何度も繰り返しました。

そうやって、外部から何を言われようと理路整然と安全対策を施していることを説明できるようにし、実際何が起こっても最大限できることはできるようにして、ようやく開催に漕ぎ着けたのです。

「バトンを受け取る」という責任とは、こういうことなのだ、という信念で、イベントに関わるメンバー全員が頑張りました。

 


■時に癒されながら、名もなき人たちに思いを馳せてみる

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仙台空港の海側の住宅地は、津波で壊滅しました。
そこには、小さいころよく遊んでくれた従弟の兄家族も住んでいました。
同僚も、何人も家族を失いました。


あれから6年の月日が経って、今では日本全体で少しずつ震災の記憶が薄れていってるようです。
それを悪いことだとは思いません。
拭えない傷も、時が解決してくれることがたくさんあります。

でもあの時確かに、エンタメに携わる世界の人間たちも戦っていた、ということだけは、ささやかながらこうして記録に残しておこうと思います。
今はもう役割を終え、解散してしまいましたが、被災地では人々を激励するためにご当地アイドルもいくつか生まれました。

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うん…今日のお話は、ちょっと地味だったかもしれませんね。
いろいろ頑張った、といっても仕事なんですから当たり前といえば当たり前のことだし、おそらくいろんな職業の方が、そのお仕事にまつわる苦労や努力をそれぞれされて、あの日を乗り越えてこられたことと思います。

でも、LIVE屋、イベント屋としての僕にとっては、3・11にはこんな意味があったというお話。

あらためて、震災で犠牲になった方々のご冥福と、残された方々の心の平安をお祈り申しあげます。